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2006-03-22 Wed 18:38
前回は政宗がたった数年で南奥州の覇者となったところまで書かせていただいた。
伊達政宗〜幼年期〜はコチラから。 伊達政宗〜青年期〜はコチラから。 前回までは紆余曲折をえつつ、勢力を広げた政宗がいたが時代は彼を悲運の人にしてしまう。 政宗が奥州の覇者となった時、すでに時代は一人の男を天下人としていた。 「豊臣秀吉」 ご存知の方ばかりだとは思うが、信長の後継者にして、戦国の覇者。 農民出身で下克上の代名詞。 サル事秀吉ちゃんである。 ここで政宗は人生最大のピンチ(一回目)をむかえる! 当時秀吉は、小田原(北条氏)を攻めようとしていた。 その秀吉から、政宗の元に小田原参陣の使者がきた。 この事件に伊達家家臣団の意見は真っ二つに分かれた。 片倉景綱は参陣を主張し,同じく伊達成実は徹底抗戦を主張した。 この時伊達家は北条家と同盟関係にあり、秀吉とは贈り物などをして友好関係を築いていた。 守る北条家も強国ではあるが、その時秀吉が北条攻略に連れていた兵は20万。 北条家の負けは必至である。 これにより、政宗は秀吉に屈する決意をした。 そしていざ出陣の4月6日を迎えようとする一日前、政宗は実の母である、母義姫に毒を盛られるという事件が起こった! 次男小次郎を愛してやまない義姫は長男の政宗を屠ろうとしたのである。 こうして政宗は次男小次郎を自らの手で切る事になる。 これにより小田原参陣が2ヶ月ほど遅れてしまった…。 秀吉はまだ見ぬ政宗を信用してもいないし、そんな状況の時に遅刻してしまった事で余計に秀吉の不信感を買ってしまった。 政宗を死を決意した。 おそらく自分は殺され、主を失った自分の所領は秀吉に吸収される事になるだろう。 そして政宗はヤケクソになった! 小田原に着陣してから政宗は秀吉と会見した。 それまで一度も顔を合わせた事ない二人は 「東北の田舎侍の小僧」 「農民あがりのサル」 程度にしかお互いを思っていなかったが、その日の政宗の行動は秀吉の認識を一変させる。 政宗がした事それは。 会見の席に白装束(死体が着る死装束)でもって望んだのだ! これには秀吉もかなり度肝を抜かれた。 白装束を着る事によって、自分は死を覚悟してる事。この場で切られてもそちらに手を煩わせないと言う意地をとおしたのだ。 この開き直りともいえる態度が秀吉の興味をひいたのか、政宗は許され、旧芦名領は取り上げられたものの、本領は安堵された。 そして時代は秀吉の掌中へと転がる。 政宗もその間何もしていないわけでは無い。 1591年 には蒲生氏郷・木村吉清・清久父子とともに大崎・葛西一揆を平定し、米沢城から玉造郡岩出山城に転封・減封となり58万石、後に加増されて60万石となる。 1592年 秀吉の朝鮮出兵にも従軍して朝鮮半島へ渡る。また、普請事業なども行う。 (朝鮮出兵時に政宗があつらえさせた戦装束は大変に華美なもので、出兵の道中において盛んに巷間の噂となり、これ以来派手な装いを好み着こなす人を指して「伊達者(だてもの)」と呼ぶようになった、と伝えられる。) 1599年 には娘の五十八(五郎八)姫(いろはひめ)を徳川家康の6男、松平忠輝と婚約させる。 1591年の一揆平定をしていた頃、こんなエピソードがある。 秀吉から伊達政宗、蒲生氏郷で一揆の平定を命じられたわけなのだが、それと時を同じくして伊達家家臣の須田伯耆が裏切り「政宗が一揆を煽動している。」と書状を持参して氏郷に訴えた。 これにより氏郷は伊達家を警戒して、名生(みょう)城を落としそのままそこに立て篭もった。 政宗は伊達軍のみで佐沼城に向かい,木村父子を救出した。 一揆平定後、秀吉から上洛の命令が来た。 政宗は白装束を着ていくだけでなく,黄金の磔柱(十字架のはりつけ台)を押し立てていた。 秀吉の面前で弾劾裁判が始まった。 須田伯耆が氏郷のもとに持ち込んだ書状が,証拠として提出された。 政宗はそこで見事な答弁をする。 「これは偽物であり,自分を陥れるために誰かが仕組んだものだ。」 「自分の花押(かおう)によく似せているが,自分の花押には鶺鴒(せきれい)の目に針で穴をあけていが,この鶺鴒は盲目である。」 この鶺鴒の目により,事なきを得た。 問題の鶺鴒の花押↓ ![]() この事件一つとっても政宗がいかに用心深く、未来を見通し、そして危機を脱する知略をもった人だった事がわかる。 のち秀吉の死後、 関が原の戦いでは徳川家康率いる東軍に属し。 大阪夏の陣でも東軍に属す。 1601年 仙台城、城下町・仙台の建設をはじめ、居城を移す。 千代(せんだい)と言う名前から仙台と変え、町を作ったのは政宗。 その後2代将軍徳川秀忠、3代徳川家光の頃まで仕え、 1636年5月江戸で死亡。享年70。 辞世の句は 「曇りなき心の月を先だてて 浮世の闇を照してぞ行く」 政宗を書くにあたって迷った。 どうすれば政宗の凄さが伝わるのか。 政宗は遅れてきた戦国大名と呼ばれている。 それはもし、信長、秀吉、家康と同年代として生まれていたら、彼は先の三名と共に天下に号令できた一人だからだろう。 それを本人が痛いほどわかっていた違いない。 伊達政宗が大好きな一人として、これを読んだ方が政宗を少しでも知り、好きになってくれれば嬉しい |
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2006-03-14 Tue 23:20
近所には私が名前をつけたねこが3匹いる。
今回紹介するボッスィーはのらのクセにちょいデブ。 多分コイツは中々につよい猫なので、カツアゲ的なものをしちゃってるんだろうなぁ。 でわでわボッスィー画像↓↓↓ ![]() 三軒茶屋でボッスィーにあったら2m以内に近づかないように。 リアルに攻撃仕掛けてきます。 今日は珍しく普通じゃない? |
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2006-03-13 Mon 18:19
さてさてまた遅れてしまったが、今日は伊達政宗の青年期を書こうと思う。
伊達政宗〜幼年期〜の記事はコチラから。 彼の青年期は激動と言っていい。 彼は元服から12年間で今で言う東北南部を手中に収めてしまう。 (彼の元服は11歳…ヤバイね…実際戦に参加してからは8年…やっぱヤバイ…。) では時を巡ってみよう。 1577年11歳 元服。 1579年13歳 結婚しちゃう。相手は三春城主田村清顕の娘愛姫(この田村って言うのは坂上田村麻呂の子孫) 1581年15歳 初陣。領土がお隣の相馬氏との領地争いに15歳で初陣し、勝利を収める。 1584年19歳 家督を相続。ここで一つ逸話を… 小松城というところを正宗が陥落させた事により、二本松城の城主、畠山義継が政宗に降伏を申し出てきた。強大になった伊達家を恐怖しての行動だった。 だが、畠山家と伊達家は今まで事あるごとに敵対してきた関係。 今さら降伏などと思う政宗は、降伏受理の条件として 領地は5ヶ村だけ,嫡男を人質に出すという過酷な条件をつけた。 この条件わかりにくいが、県知事が町長さんまで落ちたぐらいだと思ってもらえばいいと思う。(息子さん人質つきで♪) でもそれキツイんじゃね?って隠居した輝宗パパのとりなしで条件は若干緩和されることになる。 畠山義継はそのお礼にやってくるのだが、そこで何を思ったか、輝宗パパを拉致!逃走(-_-メ) おそらく義継は警備の兵の「今ここでアイツ殺したら早いのに…」とかなんとかを聞いちゃって勘違いしたんじゃないかな? しかし相手の領地奥深くから、早々逃げれるものでは無い。 事態を聞いた政宗は手勢を率いて追跡を開始し、ついに追い詰めるのだが、誘拐犯おなじみの「コイツがどうなってもいいのか!?」ってな事になる。 政宗がすごいのは少しづつ伝わってきているとは思うが、やはり輝宗パパもすごい! 政宗に自分ごと殺せと命じ、政宗は鉄砲隊の斉射によりパパごと義継を殺してしまう。 現代日本では起こりえないこの親子の行動に何か物語りを感じてしまう。 戦国と言う弱肉強者の世界でどう生きるべきかそれを輝宗パパは息子に伝えたのではないだろうか。 この事件後、憎悪を燃やす政宗は、憎き義継の目をえぐり耳をそいで首をさらした。その後わずか12歳の国王丸が守る二本松城を攻撃。 しかし、以外と粘る二本松勢、天候にも恵まれず。 輝宗の雪辱戦は撤退を余儀なくされる。 これに好機とみた佐竹家・芦名家の連合軍三万余りが攻撃をしかけてきた。 対する伊達軍わずかに八千… 両軍は戦略の要であった人取橋を巡る戦いを始める。 初め防戦一方であった伊達軍だったが、政宗の年下のオジ伊達成実や老将鬼庭左月の活躍によりかろうじて人取橋を死守。 ここで驚いた事が起こった。 翌日3万いた連合軍が奇跡のように消えていたのである。 諸説は多々あり、現在もその原因は判明していないが、佐竹の本城が攻められそうになったのが原因とか,伊達の諜報部隊黒脛巾組による流言の成果といった説がある。 1588年22歳 郡山合戦。 1589年23歳 摺上原の戦いで蘆名義広・佐竹氏などを敗走させ、奥州南部(今の東北南部とからへん)をほぼ制覇し、30万石から90万石の領主とかなった。 ここまでが青年期♪ だけど歴史は彼に味方していなかった…ちょうどかれが90万石になった頃、信長の後継者として秀吉が立つ。 歴史は彼をどこに導いていくのだろう。 次回までもまた時間が空いてしまわないように努力はするつもり♪ |
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2006-03-11 Sat 19:00
私も偉人について語らせていただいている一人なのですが、
今回まったく違う要素をもったブログを発見いたしました。 その名も偉人ブログ はい!まんまですね。 どう違う要素があるかといいますと、偉人さんが書いてるブログなんですね… うん?今頭おかしいとか思った? いやいや違うんです、おそらく霊界にいらっしゃった偉人の霊達がブログを書いてるのかも知れませんが、キリスト・フランシスコザビエル・マリーアントワネット・小野妹子・松尾芭蕉・千利休・徳川綱吉・豊臣秀吉などそうそうたる顔ぶれがブログを書いてらっしゃいます。 しかもおもっきり現代語訳で。 なので、古文の知識が無い方でも楽しんで読んでいただけるブログです。 あ〜それとこの偉人さんたちMSNメッセンジャーとかもしてるみたいなんで、見つけたら管理人さんに報告してあげるのもいいかもしれませんね。 |
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2006-03-08 Wed 07:16
やっとこさ伊達政宗について書こうと思う。
伊達政宗、幼名は梵天丸(ぼんてんまる)、字は藤次郎(とうじろう)、正式な名乗りは藤原正宗(ふじわら・の・まさむね)。 生まれは出羽国米沢(山形県米沢市)。出羽という地域は今で言うところの秋田県&山形県。 幼年期のエピソードとして有名なのはやはり政宗を独眼竜たらしめた右目の失明だろう。 このエピソードには恐るべき逸話がある。 天然痘にかかり右目を失明した政宗。 失明後も激痛が右目を襲っていた。。 なんとあろうことか、政宗! 部下に右目をくりぬけと命じ、 視神経を切断したと言うのであ る!! 絶対マネできないこの行動。もうすでに幼い頃から類いまれな胆力があったのであろう。 しかしこの話まだ終わりではない。 両親からもらったものを病とはいえ無くしてしまうのは申し訳ないと言い 摘出した右目を食べちゃうのである!! 見上げた親孝行者ではあるが、政宗…ちょっと危ない人に見えるよ…。 しかもこの時まだ6歳… それから彼は失明した事により、実の母から「醜い」と言うだけで嫌われ…挙句の果てに毒を盛られる(´Д`) 母親はどうやら弟の小次郎を当主にしたかったらしい。 でもこの母親があるから、政宗があったのだろうなと感じるのは私だけではないだろう。 多分政宗は母親似だったんじゃないかなぁ? さすがに心配になった父の輝宗が坊さんに頼んで政宗に英才教育をほどこす。 10歳になった時、片倉景綱が側近になる。 この景綱が政宗というすごい人をつくりあげた人だと思う。 景綱自身すごい人だし。 ってか目玉えぐりだしたのこの人ね これが政宗幼年期のお話。 次回は青年期を語っちゃう事にしよう。 幼年期からこんなすごい政宗…青年期になったらどうなることやら。 お楽しみに。 |
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2006-03-05 Sun 04:55
え〜先日28日にライブをしてきました。
うちのバンドの演奏はさておき、タイバンの方々と親しくなれたので、ものすごくよかったです(*^-^*) この場をかりて紹介させていただきやす the dilemma of hedgehogさん ここはかなり熱いバンドです!演奏もいいし、楽曲もいい! そして熱くライブをする方々です('-^*)/ オールフルーズさん 以前私がVoをしていたバンドの時にタイバンさせていただた事があるバンド、ものすごいスピードで進化しております(>_<) ヤバイッス(>_<) Brave Instrumentさん 初めてタイバンさせていただいたのですが、独特の雰囲気があってカッコヨカです♪ ドラムさんがラブでした。 WORDさん シンプルな楽曲にきもちのいいサウンドをしていました♪ なんかカラダにす〜っと入ってくる音をしています!ラブです!かなりラブです! とリハの時から、勇気だして声をかけさせていただき、仲良くならせていただきました! ごっつぁんです! さてさて話は変わって、自分の精神状態が著しくおかしいです… めさめさ凹んでます(´Д`) 理由はまったく無いです(多分) 基本ポジティブシンキングの私なのですが、年に二回ほど来ます!そういう波が…特に春前のこの季節…。 よく「いつ寝てるの?」とか言われるタイプなんで、まわりの方々にタフに思われてます!まぁ確かにタフなんですけど… だからなのか、親族とかすんごい仲のいい友達とか、後恋人(いればね…)ぐらいしか甘えれないです…。 と言うか多分かっこつけなんでしょうなぁ(´Д`) ってなわけで今まったく人と関わりたくない精神状態です…電話とかも出ないし、メールも返さない…。 ヒドイ事にバンドのメンバーの連絡ですら…(ホントごめんね…もうちょいほっといて) 結局、自分で解決するしかないので、ひたすらベースひいたり、曲書いたり、絵描いたり、何かしら文章書いたりして、何も考えない状況をつくりあげてます…。 元気になったら今度こそ、伊達政宗にトライします! 後数日もすれば治るとおもいやす…。 完璧自己満日記でした。 ではでは |
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